なんでもない日

 どうして、男とああいう関係を持つんですか?
 俺が言うと、カミュは瞳を覗き込むようにして、じっと俺を見据えた。俺の質問の意図をはかるようだった。
「ああいう関係とは?」
「つまり、・・・なぜ女性ではなく、男性が相手なのかと」
 カミュは俺の淹れたコーヒーを一口すすり、テーブルに置いた。掌を広げ、肩をすくめる。
「なぜって・・・。判るだろう、ミロは求めるに値するほど強い。それに、愛するに足るほど美しい。わたしにとって、愛すると言うに足る人間はミロだ、というだけの話だ」
 それに、とカミュは直截的な言葉で彼らの肉体の恋愛について数語付け加えた。俺はそれを聞かなかったことにした。
「ミロが美しい、ですか」
 俺にとってのミロは、俺を下から睨み上げるように見る陰険な青い瞳と、他人を拒絶する頑なな無表情、嵩にかかった態度。言われてみれば、確かに面立ちは整っているかもしれなかったが。
「俺にはあなたのほうがずっと美しく見えますよ」
 カミュは俺をじっと見つめ、やがて視線を外した。コーヒーを飲み、チョコレートをゆっくりと口に押し込んだ。
「変わった嗜好の男だな、おまえは」
「そうかもしれませんね」
 コーヒー、淹れてきましょうか。俺は台所へと立った。

 水を汲んだ小鍋を火にかけ、沸騰するのを待つ。
 人の愛には、いくつか種類がある。肉欲、尊敬、友愛、博愛。カミュに対する俺の気持ちを、なんと呼べばいいのだろうか。初めて会った日の、厳しい表情。不器用な気遣い。彼の内側には深い情愛が満ちているのに、誰にも悟られまいと必死で分厚い無表情に蔽っている。訓練ばかりの日々の中、俺たちが彼の予想以上に力をつけていると知ったときの、希望に満ちた驚きの表情、それに続く晴れやかな微笑み。よくやった、と俺たちを撫でる仕草も、初めはすごくぎこちなかったが、数年経つと、本当の家族のように遠慮のないものになった。
 初めて会ったとき、カミュは巨人のように大きく頼もしく、俺にできないことも何でもできて、俺は彼のことをとても大人の男だと思った。けれど、今は判る、彼は背ばかり高く、心がまだ肉体の力に追いつかない、不安定な原石のような少年だったということを。何年も経って何かの拍子に、そう初めて思った日から、俺の彼への気持ちは少し変化した。師匠に対する態度としては不遜だろうが、彼をいとおしいと思うようになった。わたしはこの子らの師匠なのだから、と歯を食いしばって、あの少年は這いつくばるようにして俺たちを育ててくれたのだ。
 暖炉と蝋燭の明かりの下で慣れない繕い物をしている後姿、一度も下げたことのない頭を下げて、衰弱した子供のために卵や牛乳を購ってきたこと。あの頃、俺たちが目覚める前には彼は起きていて、その日の天候を確かめ、訓練を組み立てるために空を見上げていた。夜は夜で、夕食の後ベッドに行くまでのわずかな時間に、本を読んで聞かせ、辛抱強く文字を教えた。古いギリシアの英雄譚をゆっくりと読み上げる彼の声、積まれた辞書、テーブルの上の小さな黒板をこつこつと響く白墨の音。アイザックも俺も眠たくてしょうがなくて、しかしカミュはその日教えたことを覚えてしまうまでは、寝ることを許さなかった。
 あるいは、訪れたミロと額を付けるようにして深刻な話をしていた横顔と、夜中に目を覚まし迷い込んできた俺を寝かしつけ、額を撫でる温かな手。ドアを閉めた後も、二人の押し殺した会話は続いた。ミロの滑らかなギリシア語の調子――それはまだ俺たちにはよく判らない言葉だった、彼に応えるカミュのギリシア語、いつも俺たちに話すときの口調ではなく、ずっと早口でにべもない調子だった。ミロは何かを説得していて、カミュはそれを拒絶していた。彼らの口調は時折激し、しかし、決まって最後には、ミロが嘆息して何事か短く口にした。
 ねえ、カミュ、昨夜はミロと何を話していたんですか?
 うるさかっただろう、すまないな。眠れたか?
 俺の問いにカミュは質問で返した。はい、カミュ。そうか、じゃあ朝食にしよう、アイザックは台所を、氷河はミロを起こしておいで。俺は食堂を出て、客間のドアをノックした。ミロ、朝食の時間です。
 しばらく経って俺がギリシア語に通じるようになって、俺はミロから聞かされた。白鳥座を育成するためにと極北へ送られたカミュに、今度は、聖域から長く遠く離れすぎたために、よからぬことを企てているという疑いがかけられているということを。俺は育成を止めろと言った。もしくは、聖域の目の届くところでやれと。だが、カミュは聞きやしない。あの子たちには、ここの冬と寒さがまだ必要だ。それに、間違ったことなどしていない、わたしから折れるのは絶対にいやだ。
 あれは要領が悪い。早死にするタイプだ。とミロは、忌々しそうに俺から目を外しながら言った。だから、おまえらどっちでもいい、さっさと白鳥座になれ。さっさと白鳥座になって、おまえらの師匠を解放してやれ。俺たちはまだカミュの全能性を信じていた。だから、ミロの言葉に俺たちは子供っぽく反抗した。そんな話ウソにきまってる!
 しばらくしてアイザックを失い、俺は白鳥聖衣を得た。カミュはひどく言いづらそうに、日本へ行けと言った。おまえにこんなことを命じたくはない。だが。そんな思いの透けて見えるカミュの一言一言に、俺は昔聞いたミロの言葉を思い出していた。さっさと白鳥座になって、おまえらの師匠を解放してやれ。それは今かもしれなかった。俺が日本へ行って、奴らを始末してしまえば。カミュと俺たちの身分は保証されるのかもしれなかった。それで俺はそのとき、日本へ行くことを決めた。
 俺の気持ちを、なんと呼べばいいのだろう。

 鍋で沸かしたコーヒーの上澄みをポットに移し、テーブルに運ぶ。ちょうど空になったカミュのカップにコーヒーを注ぐ。ありがとう、とカミュは言う。それはたいていフランス語だった。
 再びテーブルの向かいに座った俺に、カミュは意を決したように目を上げた。
「氷河」
 俺より何歳も年上なのに、いまだほっそりとした少年のような骨組みの身体。コーヒーのカップを支える骨ばった美しい両手の指、長くかたちよい爪。赤いワインのような色の髪の陰に、濃い赤に見えるときもある琥珀色の瞳。カミュはその表情を険しくして、俺を見つめていた。
「おまえは男性に興味を持っているのか」
 は?と俺はあっけにとられたが、カミュの切羽詰った表情に、やたらな返答ははばかられた。
「それは、おまえの母の遺体を無理に引き離してしまったせいなのか?つまり・・・、わたしのせいで、おまえは女に興味を持てないのか?」
 いや、女に興味を持てないわけではないですし、マーマの船がどうこうは俺の中では既に片付いた問題ですし。言いたかったが、カミュは口早に言葉を継ぐ。
「それとも、幼いときにミロとわたしの仲を知ってしまったせいなのか?すまない氷河、おまえの未来をわたしは・・・!」
 何をどうしてそんな結論に至ったんです、と俺は言いかけて、ちくり、と俺の胸に、意地の悪い考えが芽生える。
「じゃあ、先生、責任を取ってくださいよ。俺の未来を狂わせたと言うなら・・・」
 しかし返答は俺の頬への平手打ちだった。ぴしゃりと俺を拒絶する。
「甘えるな。すまない、と既にわたしは謝ったぞ」
 俺はため息を飲み込んだ。まったくこの人は・・・。
「・・・いや、今のは単なる冗談です。だいたい俺は男に興味なんてありませんよ」
 カミュが応答に窮する番だった。そうか、そうだったのか。いや、すまない、わたしは何か誤解していた。殴ってすまなかった。
 カミュと俺は再びテーブルに向かい合わせに収まり、コーヒーを飲んだ。そうだ、この間あの遺跡に行ったんだ、この話はしたか?いいえ、聞いてません。そうか、オーロラを見に行ったのだが・・・、カミュは好き勝手に喋る。俺はそれを半ば流し聞きながら、時々うなずいてみせる。
 時々、シベリアの家でカミュとミロが私的な会話をしているのを、少し遠くから見ることがあった。カミュは大げさな身振り手振りで生き生きと何か喋っており、ミロは物静かに笑いながらそれを聞いていた。ミロが何か短く言うと、カミュは嬉しそうにそれを聞き、ミロに何か囁く、ミロは笑い、やがて二人は身体をよじって大笑いする。彼らの会話は多分、俺が今聞いているような、他愛もない話だっただろう。カミュの話を聞くミロは、きっと俺と同じような心持だっただろう。

「日が傾いてきたな」
 ふと、カミュが言う。開け放した扉から見える隣室の、窓から斜めに射す蜜色の光を、カミュは一瞬放心したように眺めている。
「もうこんな時間ですね」
 ポットの中もすっかり空になっていた。俺はテーブルの上を片付けてしまうと、暇を告げた。
「今日は夕食を食べていくのかと思っていた」
「沙織さんに招かれているんです。また明日にでも寄りますよ」
「そうか」
 カミュはあてが外れて、残念そうだった。
 辞去する俺を見送るためにカミュは立ち上がり、俺の後をついて歩き始めた。
「昔は――シベリアでは、朝から晩まで一緒にいるのがあたりまえだった。今は、おまえにはおまえの生活がある、そのことにまだ慣れない」
「弟子の成長を喜ぶべきですよ」
 いまや、俺には俺の生活があった。日本で出会った俺の兄弟たち、激戦をともにくぐりぬけた友が。初め、俺にはマーマしかいなかった。マーマがいなくなり、代わりにカミュとアイザックが俺の家族になった。アイザックを失ってからも、俺たちは三人で一つの家族だった。カミュと俺は、一人分の空白をいつも感じながら暮らしてきた。
 今の俺には、カミュがいて、沙織さんがいて、かけがえのない友がいる。カミュはどうなのだろう。今の彼は、二人分の空白を感じているのだろうか。
「沙織さんによろしくな」
 カミュが右手を差し出す。俺はうなずいて手を握った。
 俺の小宇宙と彼のそれが、極めて細かな粒子が混じりあうように触れ合い、溶け合った。金属の白に近い、黄金の炎、それがカミュの小宇宙の色だ。大きく懐かしく、全ての生命を拒む雪原のように、孤独で光に満ちている。
 この美しい小宇宙を持つ人が、彼の人生を寂しいなどと感じないように、と俺は願った。
「また明日来ます」
「夕食を作ろう」
「カミュのボルシチもどきは止めてくださいね。普通のでいいです。なんか魚とか肉の焼いたので」
「もどきとはなんだ!せっかくシベリアの味を思い出させてやろうと思っていたのに!」
 あぶない。やっぱり釘は刺しておくものだ。カミュの言うボルシチ(もどき)は、トマトの缶詰の入った野菜と肉のごった煮に小麦粉でとろみをつけたもので、それは彼の大雑把な料理の手際からして美味いとは言いがたいものだった。あれをボルシチというなら、ロシア人も青筋立てて怒るだろう。
 神殿部分へ向かう回廊を歩いていると、反対側から巨大な敵意が俺に向かってきていた。
「どこへ行く、氷河」
 逆毛というほど跳ね散らかった金髪の、大柄な男。見ればミロは両手一杯に食材を抱えていた。
「すみません、俺、今日沙織さんに招かれてて。また明日来ます」
「おい、今日はおまえが来るから、カミュが夕食を作ってくれと、だから俺はこうして来てる」
「すみません。明日ご馳走になります」
 おいテメェとミロの口調が荒くなる。俺はすれ違いざま、足を早める。あ、そうだ。
「ボルシチは止めてくださいね、普通の料理でいいです」
 ・・・どうやら俺は、二人の黄金聖闘士を敵に回してしまったようだ。明日の訪問を反故にすべきかどうか考えながら、俺は女神神殿の門をくぐった。

end
2012/02/26

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