彼は笑う

 ただ、気になるのが。星見の男は言いよどんだ。
 そばの寝台でまどろんでいる子供を、カミュは見た。銀の髪、まだ五つかそこらの少年だ。星見の宣託に基づいて、拉致されてきた子だ。カミュは弟子として預かるべき子供を迎えにきたのだった。ただ一本の蝋燭の光、女神神殿の奥まった部屋で、星見の男が子供の上に輝く星を読んでいる。
「彼は白鳥座になれないかもしれない」
 だったら何だ。カミュは男をじろりと見た。そんなこと。あたりまえじゃないか。カミュは白鳥座になれずに死んだ子供を、既に八人葬っていた。男は慌てて付け加えた。
「違う星もまた、彼の上に影響を及ぼしているという意味です。正統な白鳥座にはこんな星図は見られない」
「つまり?」
「白鳥座を育てるべきあなたが――アクエリアス様が、純血の白鳥座をお望みなら」
 殺すというのか。カミュは男の目を見た。男は心からそう考えているようだった。
 八十八の星座をそれぞれ戴いて生まれてきた子供が、星座の聖闘士となるべく訓練を受ける。女神を護り、民草の世を護るために。勝手な言い分だ。そのためにどれだけの子供がさらわれ、過酷な生活に命を落としてきたことか。星座の頂点に輝く十二星座の一として、聖域の上流階級として権力をほしいままにする黄金聖闘士といえども、全ての彼らの記憶の始まりは無残なものだ。故郷との別離、暴力と孤独。
 カミュは手を上げて、後ろに控えていた下役に合図した。彼らは子供をそっと抱き上げ、わずかな荷物とともに別室へと消えた。
「おまえには失望した」
 星見は恐縮して身をかがませた。カミュは黙って立ち上がると、部屋を後にした。

 翌朝、カミュは再び神殿を訪れた。
 洗い清められ、真新しい服を着せられた少年は、泣き疲れた様子で椅子に座っていた。彼をあやしていた小間使いの娘は入ってきたカミュに気付き、跪き礼をとると部屋から滑り出て行った。冬の空は再び雨を降らそうとしているようだった。
「故郷へ戻りたいか」
 カミュは言った。少年は首を振った。
「ぼくの父さんも母さんも戦争で死にました。戻りたくはありません」
「ではなぜ泣いている」
「みんな死んでしまったからです」
 ああ、そうだな。とカミュは索漠として思った。愚かしい質問をしたものだ。
「おまえは自分の運命を知っているか」
 カミュは膝をつき、少年の目を覗き込んだ。涙に濡れていたが少年の目には、既に意思が宿っていた。
「ぼくは聖闘士になります」
「そうだ」
 おまえはこれから、他の子供たちと一緒に聖域で訓練を受ける。勝ち抜くんだ。
「ぼくにはそれしか残されていないんですね」
「そうだ。おまえの運命を掴め」
 廊下に小間使いの娘が戻ってきていた。
「アクエリアス様、星見様がお目にかかりたいと」
 頷くと、杖の音とともに、暗い色の長衣をまとった陰鬱な男が姿を現した。彼が占い部屋から出るのは珍しいことだった。
「昨夜は失礼を。もう出立されるとお聞きしまして」
「どうした」
「お許しいただけるなら、この子に名前を持って参りました」
 ああ、とカミュは立ち上がった。連れてこられた子供は星見から、聖域での新しい名前を授かる。
「聞こう」
「イツハーク。彼は笑う、という名です」
 イツハーク。カミュは真似をして言ってみた。言いにくかった。多分変形して呼ぶようになるだろう。
「良い名だ」
 おまえは今日から、イツハーク。白鳥座になる男だ。判ったな。少年は透った緑の目で、はっきりと諾と言った。
「わたしはもう発たねばならない。生き延びろ。必ずシベリアへ来い。待っているぞ」
「はい、先生」
「訓練が辛かったら、」
 カミュは星見を目で指してみせた。
「あの男のところへ行くがいい。何も頼りにはならないが、おとぎ話の一つくらいはしてくれるだろう」
「はい、先生」
 星見が不自由な脚で礼を取ってみせる。

 星見の男は、元は聖闘士を目指す子供の一人だった。闘いに向かず、殺処分されるところを、星見の才能のために見逃された子供だった。聖闘士になろうとして片脚をなくし、星見になるために片目を潰された。見えないほうの目で星を読むためだ。
 少年が連れて行かれた後、カミュは星見に尋ねた。
「一つ教えてくれ」
 どうぞ、と星見は慇懃に答える。
「ほんとうに、潰れたほうの目で星が読めるのか?」
 星見は笑う。何も見えませんよ。
「なぜ星見は目を潰すんだ」
「それについては、わたしも散々考えました」
 半分目をつぶっていろ、ということかもしれませんね。
 過去は見ず、未来だけを。悲しみは見ず、喜びだけを。悪しき面は見ず、良いところだけを。
「あの子を守ってやってくれ」
「わたしの力の限り」
「いい名をもらって幸せな子だ」
 ありがとうございます、と星見は笑い、部屋を辞した。
 この聖域に、幸あれと、意味のある名をつけられた子供が、はたして何人いただろうか。「彼は笑う」、ふさわしい未来をカミュは祈った。

end
2008/03/27

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