もう冬になる、とミロが言う。
窓際に寄せたベッドから、裸のまま身を乗りだして夜空を眺めている。真夜中近くに窓を全開して外を見るには、確かに、少々肌寒い。わたしはミロに倣って、窓枠に上体を預け、星空を見上げた。はるか崖下の海から、穏やかに波音が遠く響く。今日は雲ひとつない美しい星空だ。
わたしは天頂近くに白鳥座を認め、その頭を飾る美しいデネブの輝きを愛でた。今にも降り注ぐような、全天を覆う星々の瞬きの中にあって、その光は一際大きく美しい。ひんやりと肩を触れる空気は、あの星々が送る質量のない風のようだ。
この季節が好きなんだ、おまえの星と、俺の星が同じ空に見えるから。虚を衝かれ、わたしは思わずわたしの星を探した。ミロの星とわたしの星が同じ空に見える季節について、わたしは考えたことがなかった。わたしにとって、ミロの星は夏のもので、わたしの星は秋のものだったからだ。
「南東だ」
ミロの指が、つ、と方角を指す。俺のはこっち。目を向けると、南西の低い位置にあの赤いアンタレスが見えた。
「本当だ」
ミロの星は、彼の見た目と同じくとても豪華で派手だ。一際大きく赤いアンタレスを中心に、明るい星々が連なってきらめき、それは周りの星座を圧倒して歴然としていた。わたしの星である水瓶座には、そんな明るい星はない。
ミロは身体を起こし、ベッドの上に胡坐をかく。おまえが欲しいと言う代わりに、あの青い瞳に蜜のようにとろりと甘い色を浮かべてわたしを見つめる。
「そんなふうにしていると、本当に神話のガニュメデスみたいだ」
ミロの言葉の皮肉さに、わたしは思わず小さく笑った。その笑みを了承と取ったのだろう、ミロはベッドに腕を突き、わたしの身体にのしかかるようにして口唇を合わせる。
わたしはベッドの上で脚を投げ出し、窓枠に背をもたれていた。全裸だったから、腰の辺りだけ白いシーツを引き上げている。神話を描いた絵画によく登場する、申し訳程度に布をまつわせた、ああいう格好に見えなくもなかった。
水瓶座の逸話にあるガニュメデスは、トロイアかどこかそのあたりの美しい若い男で、全身が黄金に光り輝くその美しさのあまり、主神が姿を変えた大鷲に酌人として攫われたという。絵画や彫刻で見るガニュメデスたちはいずれも、表情豊かな頬を持つ、金の巻き毛の少年だった。いつか見たベルニーニのアポロンのような、白い滑らかな肌を持つ、――そう、わたしの前に、裸体を晒しているこの男のような姿だった。その当人に、ガニュメデスのようだと言われるとは。
わたしは再び失笑しかかったが、ミロとの長い接吻の合間に、口唇の端を歪めただけで、声にはならなかった。
今日はミロの誕生日だった。ミロ、つまり蠍座の黄金聖闘士、女神の騎士の頂点の一人、天蠍宮の守護者、彼が星に宿命づけられた日。その宿命の日を祝福する儀式が行われ、続いて、現世的な願いを抱く者たちの宴が続く。形式的な祝詞、美しいが何の感情もない笑顔、値ばかり張って喜びのない贈り物。
生誕の日の早朝、黄金聖闘士は沐浴の儀式を受け、甲冑姿に正装し女神神殿へと石段を登る。小間使いたちは髪を梳き、香油で聖別された肌を絹で拭う。歩みの先に撒き散らされる花々。香炉を捧げ持つ露払い、いつもとは違う上等な織の、白いマントの生地、その後ろに列をなす侍女や神官たち。その音もない行列が、わたしには、生きているうちに行われる弔いのように見える。洗い清められ、香油と花々で聖別された亡骸に僧侶が祈りと労いの言葉をかける。聖闘士とは、生きながら常に死んでいる、そのような存在なのだろう。つまり、ミロも、わたしも。
父と母、愛する者に囲まれた穏やかな人生が、もっと人間らしい暮らしが、わたしたちにはあったはずだ。母のぬくもりに包まれ、父の腕に抱かれ、毎年の誕生日や記念日を祝うような、ささやかな暮らしが。十に満たない歳のある誕生日から、わたしたちの人生は大きく変わってしまった。星見の宣託に基づいて訪れた使者が、わたしたちを聖域へと連れ去った。そこで、わたしたちは原始の人間のような暮らしを強いられた。弱いものは徹底的に奪われ、生きることさえ許されなかった。そこで行われたこと、また自分が行ったことをわたしは思い出したくない。女神を護るためだけに摘み取られた、この荒野の人生、人間に許された温もりや安穏を奪われた、孤独な道。わたしはその運命に、いつも反感を抱かざるを得ない。わが神よ、なぜわたしを見捨てたのですか?
ふと、ミロの指の背がわたしの頬を撫でた。
「俺のために、怒りを持つ必要はない」
おまえのためじゃない、反射的にわたしは言葉を返そうとした。と、今自分が何もしゃべっていないことを思い出し、わたしはつい皮肉に笑った。心の中で呟く。聞こえたのか。
「ああ、おまえの声は大体でかいからな」
「そうかな」
「結構聞こえてるぜ」
ミロとわたしの間では、どういうわけか、時々心の声が聞こえるときがある。他の聖闘士とそういうことはないから、気心の知れた仲の、ある種の到達点なのかもしれない。たとえば、ミロが考えることをわたしは大体想像がつくから、それを耳に聞こえたように錯覚しているとか。
まあ、どうでもいいけど。ミロは傍の椅子に脱ぎ散らかした服から、煙草を探しながらそう言っていた。聞こえなかったとしても、その面倒そうな表情と、力の抜けた動作で大体判ろうというものだ。
「もし、この人生が、」
枕にもたれてベッドに身体を延べているミロの身体は、夜空の明かりを受けて青い闇に沈んでいる。一息煙草を吸い、赤く火が光る。ゆっくりと煙を吐く。わたしは自分の煙草を切らしていたので、黙ってそのままミロの声を聞いていた。
「おまえ一人だけのものだったら、おまえはきっとそれを甘んじて受けているだろう。ただ黙って女神を守るために生きて戦い、死んでいくだろう。
「それと同じように、俺には俺の人生だから、俺は何も苦痛に思ってはいない。だからおまえが怒りを抱く筋合いはない」
そういうことじゃないんだ、とわたしは例によってすぐさま反論した。わたしはいつもしゃべり過ぎる。自分のこだわりを押し通そうとする。悪い癖なのだが。
「理不尽だろう。人間に許された幸福を奪うこのしきたりを、不条理だとおまえは思わないか」
ミロは一口、深く煙草を吸った。ため息と、煙。口を開き、何か言おうとして、また口を閉ざした。
「わたしはそういう不条理が存在することが許せない」
「俺は、おまえみたいに、他人のことまでは考えてやれない。俺には俺の人生があるだけだ。他の人生を生き直すことなんてできないし、別の奴の人生なんか興味ない」
わたしは何も言うことがなく、口をつぐんだままだった。人間の幸福を阻害する不条理が存在すること、それはわたしにとって、正義が行われていないことに等しい。不正義がまかりとおることを、わたしは許せない。3歳ほどの子供を攫ってきて、おまえが女神を護るのだと、彼女に降りかかる苦難を全て代わりにその身に受けるのだと、心の拠り所も自尊心も根こそぎ奪われるような仕打ちをされることを、是とするようなこの育成方法を、わたしは決して許すことが出来なかった。だが同時に、わたしは知っている。自分の考えがナイーヴなことを。他の誰かなら、眉を上げ、肩をすくめるだけで終わるところを、ミロは黙って聞いてくれる。同意も揶揄も反論もなく、ただ黙って。そのことは、わたしにとって、確かに救いだった。
本当は知っている、わたしの人生を奪ったこの聖衣が、代わりにわたしに与える大いなるものを。女神を護るこの戦いの尊さ、そこに大きな戦力として加わることができる名誉。白状してしまえば、戦闘の中でこそ、本当に生きているという実感をわたしは得ることができた。人の歴史以来営まれてきたというこの聖域の、見えざる巨大な城の中で囲われること、人ならざる力を揮うこと。ミロと比肩して並び立つこと。わたしの失われた人生と引き換えに、この手に与えられたものだ。
あと何日か後には、わたしはまたシベリアへ帰る。そこで、子供たちと暮らし、彼らを指導する。日は短く、長い長い冬が続く。雪より冷たく乾燥しきった空気が、子供たちやわたしから人間らしい柔らかさや優しさを、少しずつ削り取っていくだろう。だが、そこで暮らすことでしか得られないものがある。
ミロは常のとおり、命令のもとに戦場へ行き、敵を、あるいは敵と決められたものを黙々と殺し続けるだろう。ミロは強い。彼が互角に戦う相手がいないのは、彼にとって悲劇だろう。わたしの知る限り、教皇の指示で出向いた彼の戦闘は、大抵、鏖殺となった。土煙の中に浮かび上がる聖鎧のシルエット、彼らの脊髄や心臓を一撃で仕留める赤い爪。獲物たちの生温い血しぶきが彼の全身を次第に赤く染めていく。帰参する頃には彼の美しい黄金の鎧は血や泥にまみれ、凄惨な有様になっているだろう。
教皇の間までそのままの格好で上ろうとする彼が、宝瓶宮を通るのに時々行き会うときがあった。これはまた派手に暴れたな。わたしが言うと、ミロは不興そうに鼻を鳴らすものだった。甘く腥い匂いを発する生乾きの血しぶきにまぶれた彼の前髪やそこから覗く通った鼻筋、持て余すように力を発散させる腕。彼の発する殺気と唸るような力の気配に、わたしは度々欲情した。それを知ってだろう、ミロは教皇への拝謁が終わると、そのままわたしの許を訪れ、鬱屈した感情をぶつけるように、犯すようにしてわたしと交わった。
一度だけ、ミロが心の内を言葉にして曝け出したことがあった。カミュ、俺は。
俺は、俺たちは、・・・黄金聖闘士は、こういう殺しをするための存在なのか。
時代が悪い、教皇が悪い、長い目で見れば、乱世とはこういうもの、これも女神のため。わたしが持つ言い訳はたくさんあった。だが、その全てを以ってしてもミロの心は支えられないだろうとわたしは知っていた。「間違っているんだ、ミロ。何もかもが掛け違っている」「俺はどうしたらいい」その答えは、わたしこそが求めるものだった。わたしたちは頭が空になるほど互いを求め合うことで、自らの存在を疑うことを忘れようとした。昼は鍛錬を重ね、互いの肉体で攻防を駆け引きし、夜は欲情が涅槃へと上り詰めるまで裸体を重ねた。
それでもわたしたちの心の中には、虚しい渇きが横たわっていた。何もかもが掛け違っている。ミロとわたしは、強く、また若く美しく、何もかも満たされているはずだった。先に見捨てたのはわたしだった。弟子を育てる、という口実に飛びつき、シベリアの奥地への追放を自ら選んだ。ミロはわたしの裏切りをしばらくの間、許さなかった。
煙草を吸い終わったミロは、灰皿に吸殻を置くと、わたしのほうへ向き直った。わたしの目をまっすぐに見る。ミロとの行為は不思議なものだ。時折、それは欲情ですらない。だが行為を通して、わたしたちは互いに深く満たされ、一つになる。身体を交えることでしか、理解し合えないことがあるのだ。ミロと愛し合うまで、わたしはセックスにそんな意味があることを知らなかった。狩りと性欲に過ぎなかったもの。だが今は。
窓枠に身体を預け、脚を開き、わたしはミロを受け入れていた。急ぐでもなく、ミロはゆっくりとわたしを貫いている。
「聖戦が起こるんだろう」
だろうな、とわたしは応えた。日々の暮らしに混じる、血煙の匂いを、黄金聖闘士は誰しも嗅ぎ取っていた。肌が粟立つような興奮、その中に自らの命が失われるだろう予感。
「俺もおまえも、近いうちに死ぬだろう」
わたしは身体をのけぞらせた。快楽のあまり、皮膚が鳥肌を立てている。腰の奥が不随意に、きつく締まる。わたしは思わずミロの肩にすがりついた。
ミロの口唇がわたしのそれに重なる。ミロはわたしの奥を貫いたまま、動きを止めていた。彼の肌を伝う汗が、冷たくわたしの裸の肌へと落ちる。
「死ぬのもいいと、俺は思ってる」
「まさか」
「おまえこそ、そう思ってるんじゃないのか。さっさと務めを果たして散り果てたいと」
ミロの指がわたしの肌をゆっくりとなぞる。わたしは砂でも噛んだような心地だった。どうしてこの男は、わたしの心の底に沈んだ、形にならない澱のようなものでも、すぐに見つけ出して、目の前に引きずり出してしまうのか。
「そうだったとしても、わたしが務めを果たすのは、だいぶ先だな。白鳥座はまだ形になっていないし、誰が継ぐのかさえ、」
「白鳥座を育てたら、後は知ったことか、ということか」
「ミロ、もう止せ」
「死ぬのもいいと、さっきまで思ってた」
ミロの人差し指が、わたしの心臓の上に置かれる。彼がその気になれば、一瞬で聖衣を鎧い、次の一瞬で、最高位まで高まった小宇宙で蠍の尾針のように伸びる赤い爪を、わたしの心臓に突き立てることもできる。
「俺は蠍座の黄金聖闘士で、女神の騎士だ。戦い抜いて俺の命が終わっても、俺の星は空に輝き続けるだろうし、それがおまえの星とともに空にあるなら、死んでも悔いはないと思った。
「だけど、それは嘘だった。俺が欲しいのは、生身のおまえなんだ」
硬く勢いを失わないミロのものがわたしの中で振れるように動く。覚えず、深く声が洩れる。絶頂はもうすぐそこだった。それなのに、わたしはまた場違いな言葉を言ってしまう。
「ミロ、わたしたちは間違っている。女神のために捧げられた肉体を、欲望のために求め合うのは、間違いだ」
「判ってるよ」
深くミロは動く。太く張りつめた彼の幹がわたしを摩擦する。煮え立つような欲情に腰が反り返り、どうしようもなく腿がミロの腰を締め上げる。
「判ってる。今日だけは、ただ、言ってくれ、愛していると」
わたしは、わたしの愛する男の頬を両の掌で撫で、口唇を重ねた。そして、心のままに任せた。
おまえを愛している、わたしの蠍。ああ、なんて罪深いことだろう。本来は、わたしの、ではなく女神の、と接続されるべきなのに。だが、わたしはただの恋人たちのように彼を腕に抱き、彼への愛を口にした。ミロはわたしを深く口づけ、ただの恋人たちのように他愛なく愛撫を繰り返した。
今日は彼の誕生日だった。
end
2013/11/29