無題(i'm losing more than i'll ever have

 ミロは足を踏み入れた空気の冷たさに一瞬たじろいだ。石の柱も、床も、白く凍りついてほのあかく発光しているかのようだった。カミュ、と呼ぶ声に、返事はない。零下まで凍えた空気が頬をうつ。離れていてもずっと肌に感じてきたあの暖かさが感じられないのを、ミロは無理矢理この冷たさのせいにして足を早めた。
 ちりちりと、氷のかけらが舞い落ちてくる純白の世界、ミロが倒れている二つの影を見つけたのは、宝瓶宮の広間だった。目を閉じてうつぶせに倒れているそれに駆け寄ると、ミロは名を呼びながら荒っぽく抱き起こした。氷となった身体はミロの腕をも凍てつかせる。氷に閉ざされた長い睫毛がうっすらと開いた。
「ああ。おまえか」
「ここは寒すぎる。今外に」
「寒くなんて」
 鈍く泡のはぜるような音がして、カミュの声は途切れた。口唇から黒い血がだらりと垂れる。霜に包まれ皮が裂けた指先が、ミロの頬に触れた。肌が冷たく灼けた。凍った肺は今や呼吸にさえ耐えられなかったが、カミュは言葉の続きを告げるべく口唇を動かし続けていた。
 ミロはそれを抱きかかえると、自分の部屋まで一散に走った。ベッドに投げ出し、ひび割れた聖衣をなぎ払うように引き剥がす。どれほどの凍気をも弾くはずの、黄金の聖衣。主を守ることもできなかった、この役立たず。ミロがまとっている天蠍の聖衣さえも、彼が今抱く凍気の塊にうっすらと霜を帯びていた。聖衣越しになお肌を食いちぎるほどの冷たさに、ミロは歯を食いしばった。カミュがあれほど自在に操っていた凍気に。全ての水と氷の主たるカミュが。なぜだ。なぜおまえらは主を食い殺した。
 柔らかい花のような色をした、まばゆいような金色の炎がミロの身体から滾るように溢れ出す。炎はミロが抱きすくめた身体を呑み込み、やがて一個の氷でしかなかったそれを人間の姿へ変えていった。凍りついて爆ぜた、そこここの裂傷が、凍気に撫でられて灼けついた肌が、緩やかにふさがっていく。
 精神を燃焼させた力で癒すのは、命を削って与えるのに似ている。ミロは意識が遠のきかけて、思わず腕を突いた。辺りを包んでいた圧倒的な光が薄れて消える。身体は限界まで消耗していた。主の気魄が薄れると、身を鎧っていた黄金は糸の切れた操り人形のように崩れ、ベッドの上に散らばった。ミロは素の肌にカミュの裸体を感じ、それが息をし鼓動を始めるのを感じた。ざらざらとかすれる息が喉を通る。
 ミロは重い身体を起こして、枕許の明かりを点けた。暗い血の色の髪、そこから覗く鼻梁、ミロは身体をずらしカミュの顔を両の掌で包むようにして覗き込んだ。青ざめてはいるが、カミュはいつものように皮肉に微笑した。
「全く、おまえって奴は」
 無茶ばかりしやがって、と続く言葉をミロは口唇を合わせて黙らせた。
「それは、俺の台詞だ」
 そのままミロは、カミュの隣に倒れこんだ。安堵の心からか、眠りが滑り込む。だがそれも一瞬のこと。
 ベッドのスプリングが揺れる。はっと目を開くと、上体を起こしたカミュが床に降りようとしていた。立とうとしてそのまま力なく床に転げ落ちる。何してんだ、とミロは身体を起こした。立ち上がる手がかりを得ようとカミュの腕がベッドをまさぐる。その腕をミロは掴んだ。
「おい」
 振り返ったカミュの瞳は熱病のような光を帯びていた。
「あれはどうしたろうか。あの子は」
 ミロはゆっくりとベッドをすべり降りた。立つ力もなく、答えを求めてミロを見上げるカミュの前に座る。あいつは、生きているよ。カミュはそれを聞いてわずかに頬を動かした。嬉しいくせに、ほほえみを堪えるときの仕草だ。ばかなやつ。
 カミュを殺した愛弟子は、宝瓶宮の中でいまだ死にかけていた。ミロにはその命のわずかな鼓動がわかった。消え残っている命の炎。場所を隔てていても感じ取れるそれが、今のカミュは察知できないのだろう。見上げるカミュが不思議そうな顔をする。子供みたいな表情だ。泣いてはいけないと思ったが、止められなかった。泣きじゃくりながら抱きついてくるミロの背を、カミュは撫でる。
「なぜ泣くんだ」
 どれだけきつく抱きしめても、腕の中にその命の炎は立ち上ってはこないことを、ミロは知った。この身体はこんなに温かいのに。こんなにきれいでいつも通りなのに。
「最後におまえに会えてよかった」
 はっと顔を上げると、カミュの口唇が微笑の形に結ばれていた。陰になって、カミュの表情はよく見えない。ミロは両手でカミュの頬に触れ、髪をかき撫でた。カミュの瞳は明るい琥珀色をしていて、光の加減で黄金にも見えたし血の色にも見えた。ミロがよく知る全ての色合いが、その瞳の中にゆっくりと移り変わるのをミロは見た。カミュは緩慢に頭をのけぞらせ、やがて呼吸を止めた。

2006/11/02

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