俺はいつものように、何も言わずにカミュの居室へ入っていった。もう午に近かったが、部屋の主はまだ眠っているらしい。物が乱雑に積まれた間を抜け、衝立の向こうを覗くと、果たして彼はベッドの上で穏やかな寝息を立てていた。
腕の外側に、ナイフがかすったような、浅い傷がいくつか。両のこぶしの、似たような位置に軽い擦過傷。露出した腕のところどころに真新しい内出血が見られた。闘う者の手でありながら、なお優雅な印象を与えるすんなりと長い指の先には、かたちよい爪。だが短く切り揃えた爪の間には、どす黒い血がまだこびりついたままだった。
カミュはその指で寝起きの目をこすると、心地よさそうに小さくあくびした。最近はほとんど笑うことのない、濃い血の色の瞳が俺を認めて微笑んだ。俺は床に座り込んで雑誌を読んでいたふりをして、微笑み返す。彼の爪先に残った誰かの血痕には気付かぬふりをして。
「来ていたのか」
ベッドを降りて部屋の外へ歩いていく背中に、俺は曖昧に返事をする。いいかげん汚れてばさばさに乱れた、くらい色の髪が肩に跳ねる後ろ姿がドアを開ける。引き締まった身体の線が鮮やかに外光に浮かび上がる。
「飯を食うか?」
いつものとおりの会話だ。食う、と俺は答え、軽く浴びてくる、とカミュは答える。
俺とカミュは、古来の女神を守護する集団の最高位に就いている。その「聖域」という名の集団は根本的に戦闘集団だが、彼らは儀礼化され、きらびやかに装い、それ自体半ば崇拝の対象になりつつある。最高位の十二人ともなればなおさらだ。
だから、カミュが人目を忍び夜闇にまぎれて外出し、いずことも知れぬ街で多少荒っぽい連中と乱闘するためだけに喧嘩を拾い歩いている、などという事実は、もし公になればこの上ない醜聞になっただろう。さいわい、今は俺一人しか知らないことだった。カミュは案外無邪気な奴なので、俺が知っていることさえ知らないふりをして、それで平気な顔をしていた。
黄道十二星座をかたどった十二の宮を守護する、十二人の聖人には、それぞれ宮を象徴する大層な防具が与えられていた。黄金と、聞きなれない鉱物の複雑な化合物でできた、全身を鎧うためのもので、聖衣と呼ばれている。この「聖域」の者なら誰もが渇望する最高位の象徴、あるいは、それ自体でっかい冗談みたいな代物だ。
上質な白い布を惜しげなく使った長衣に黄金の聖衣をまとったカミュは、最強の生き物というよりは、甘ったるい宗教画の天使のように見える。式典のために、小間使いの少年が入念に彼の身なりを整えたのだから、そう見えなくてはいけないのかもしれなかった。もちろん、俺もそういうふうに見えているのは、重々承知だ。最近ではいかなる荘重な式典さえも、ただのショウにしか過ぎなかった。
その理由も、誰もが知っている。「聖域」には「女神」がいなかった。存在しないものを、どうやって守れというのだろう。キリスト教などとは違って、戦闘こそが教義であるこの宗教で、空ろな城を守るために置かれた我々は滑稽な道化だ。何のための忠誠、何のための力、何のための生。
俺は虚しくなっていた。儀式も、最高位も、強さも、何もかも。人生さえも。
いつかこの退屈なオペラが終わるのを、漫然と待っているだけだ。誰かが、ドタバタ喜劇に幕を引いてくれるのを。
カミュの生き方は違った。彼は、彼なりに自分の人生を楽しんでいるようだった。
闘争本能が求めるままに闘い、食べたいときに食べ、飲みたいときに飲み、眠り、愛したいときには気まぐれに誰かを愛した。弟子を育てたこともあった。俺と同じように、内面は砂漠のように乾いていたが、彼の人生では少なくとも外側は快楽に満ちていた。
俺とカミュは最も親しい友人だった。それから時々は肉体関係もあった。どうしてそういうことになったのかは、もう思い出せない。カミュは何人もの男女を恋人にしてきたが、俺はいつでも彼の友人であり、愛人であり続けた。俺は誰かを愛するには疲れすぎていたからだ。特にカミュを片手に抱えているときには。
俺や俺の仲間は、訓練という名のもとに、物心つくような年頃から、殴られ、食い物にされてきた。そこでは、弱い奴は生きていく資格がなかった。毎日が殴り合いの喧嘩で、勝ち残った奴から順に極地へ送られる。そこで運良く生き延びた奴が、最高位というクソ面白くもねえ栄華を授けられるというわけだ。カミュの場合、夏でも地面が凍りついたままというシベリアの奥地へ閉じ込められ、何年かして生還した。同じ頃、聖域へ戻ってきた俺が彼の面の上に見たのは、いつも相手の背後にあの世を見ているような、焦点の合わない、薄ら寒い人殺しの目つきだった。教皇付きの雑兵の無駄話から聞いたところでは、一度など、一つの村を皆殺しにしてしまったことがあるそうだ。
カミュが前、シベリアの話をしていたのを覚えている。
そこは、とても孤立した場所なんだよ。
とカミュは言った。日が落ちたばかりの室内は、昼の暑さをにじませた静けさに満ちていた。雨戸はまだ閉まったままで部屋はすでにほの暗く、カミュの表情は読み取れない。
何日も何ヶ月も独りで過ごすんだ。そんなところでは、自分が本当に生きているのか、確かめる術は無いんだ。俺は自分に自信があるから、気が狂ったりはしない。でもときどきは不安になる。本当に俺は生きているのか、本当に俺は気が狂っていないのか。
そこは寒すぎて、雪さえ降らないような土地なんだ。一年中冬が終わらないから、乾燥しきってる。太陽も射さない。ただ、凍った泥の大地と、濁った空気みたいな空が果てまで続いて、しまいには混じりあってる。それを見てると、もう何もかもどうでもよくなってしまうんだ。生きているのも死んでしまうのも。ギリシアの太陽や海なんて、おぼろげにしか思い出せなくて、夢かまぼろしだったとしか思えなくなる。
典礼が終わると、抹香臭い長衣を俺は早々に脱ぎ捨て、普段着に着替えて控え室を出た。神殿の裏、私室に当たる部分だったが、巨大な円柱の立ち並ぶ回廊の天井は高く、しんと静まり返った中に俺の足音を無意味に響かせる。角を曲がると、カミュがちょうど彼の控え室から出てくるところだった。ありふれたパンツとありふれたシャツに、ありふれた煙草をくわえ、ありふれたビールを手に持っている彼は、どんな国のどこにでも、いつでもいるようなありふれた青年の一人になりきっていた。
カミュは部屋の中へ一度戻り、冷えたビールをもう一本手にして戻ってきた。俺たちはゆっくりとビールを飲みながら、神殿から伸びるだだっ広く壮麗な石の階段を下り始めた。午後の日に照らされて、崖から見下ろす海の表面は、油でぎらついているように見えた。風が強い。
カミュが数歩前を歩きながら、俺たちはなんでもないような話をして歩いた。小間使いによって念入りに櫛梳かれた赤い髪が、潮風にあおられて翻る。
煙草を吸い終えたカミュは最後に煙を吐きながら、指先の吸殻をもてあますように眺めた。一瞬、彼を取り巻く空気が高密になったかと思うと、吸殻があったと思しき指のあたりが濃い霧のようなものに包まれ、すぐに風とともに流れ去って、指の間には何も残っていなかった。それは彼に固有の力で、原理で言うならば、吸殻を超低温で凍らせたところへ高い圧力を加えて原子の単位で粉砕した、というところだろうか。カミュがいつも、あまりにさりげなくそれを行うので、俺はそれが常人離れした訓練の賜物だということを、つい忘れそうになる。それはまったくいつも手品みたいだった。
カミュが足を止め、俺を振り返った。霧のような冷気のなごりが残っている掌が、俺の右手のビンを握る。瞬時にビンや中身を通り越して、俺の掌にまで冷たさが広がる。カミュは同じように自分のビンを冷やすと、そのまま一口飲んで歩き出した。ちょっとした親切というわけだ。
「さっきさ、式典のとき」
風をはらんではためくシャツの背中。うん、というような声が聞こえる。
「ムウと何話してたんだ?」
「風向きの話さ」
カミュはどっしりとした石造りの手すりの上に、軽やかに飛び乗った。手すりの向こうはそのまま何百メートルも下の海へ垂直へ落ち込む崖だ。そっちを覗き込むと、俺を見て笑い、片足を軸にくるりと回ってみせる。
「気持ちいいな!おまえも来いよ」
「止めとくよ。二人歩くには狭すぎるからな」
俺が歩き出すと、カミュは手すりの上から追随する。白い石の階段、白い石の手すり、照りかえす光が強すぎて目が痛む。崖下から吹き上げる風が髪をかき回す。
「それで先生方は風向きがどうなるって?突然風が北から吹くとでも?」
揶揄する口ぶりに、カミュは軽い笑いで答えた。
「叛乱が起こるかもしれない。戦いが始まる」
「誰が」
思わずカミュを見上げた。逆光に黒い影が浮かび上がっていた。カミュの表情はわからない。
「青銅位の者どもだ」
俺は思わず舌打ちした。馬鹿どもが。無駄死にしやがって。青銅が黄金に勝つことはない。多対一であっても、その力の差が揺らぐことは絶対にない。
「彼らは彼らの女神をつれてくるんだ」
聖域の主神アテナは数百年に一度、人の姿を借りてこの世に生まれてくるという。現教皇は公の見解で、アテナはいまだ生を受けていないとしている。そこへ女神を担ぎ上げてくるなど。
「無駄死にだな」
「その中に弟子がいる」
「殺すのか」
「殺すだろう」
俺が何か言う前に、カミュは、むしろそれ以前にあの処女宮を通り抜けられるとは思えないがな、と笑い声を立てた。
それから何日も何日も、今までと同じ日々が過ぎた。午前中体を鍛え、長いたっぷりとした昼食、そして午睡。単調な繰り返し。 だが、変化したこともある。カミュは無駄な狩りにでるのを止めていた。獲物を周到に待ち構えるけだもののように、カミュはただ日々黙々と鍛錬を続けていた。
「叛乱は本当に起こるのか?」
屋外修練場を後にして、程近い水場へと歩いていくカミュの背に俺は言葉を投げた。カミュは振り返りもせず、さあな、と言うふうに肩をすくめた。
森の中に泉がある、その周囲を整地して石を貼り、修練後体を清めるようにしてある。正午を過ぎ、人影はなかった。茂みから鳥が飛び立つ。カミュは着ていた粗末な訓練着を脱ぎ捨てると、冷たい水の中に滑り込んだ。勢いよく頭までもぐって顔を出す。俺は訓練後、家で小休憩をとった後だったので、そばの木陰に座った。
浴場から流れ出る水が溜められた水槽で、カミュは脱いだ服をざっと洗うと、ものすごい力で絞り、そこいらの木の枝に掛けた。また浴場に戻り、滾々と湧く水に体を浸す。
「そう遠くない未来に、いずれ戦乱は起こるだろう」
カミュは森の木々の上、空に浮かび上がる高い山を眺めていた。崖のようにそそり立つ急峻なその岩は、スターヒルと呼ばれていた。聖域の中の聖域、女神神殿の奥に位置する聖地だ。そこを支配するのは教皇、女神の代行人であり、聖域の支配者だった。ここ一年ほどの間に聖域の戦力は、頭数でいえばほぼ倍加していた。最高位に当たる俺たちにも様々な義務や禁止が課せられて、しかも掟の数は毎日のように増えてくる。人目を欺くかのような、麗々しい典礼の数々。きな臭い印象とおぼろげな不安、不信は仲間の多くが感じていた。
「それが青銅の叛乱であるかは、どうでもいい」
水に浸かり、俺に背を向けたままカミュは話し続ける。
「ただ、待ち望んでいるんだ。その戦乱を」
「血に飢えた獣だな、まるで」
「手負いの獣だよ。俺は」
カミュはわずかにこっちを振り返り、唇の端で笑った。
「死に場所を求めて荒野をさまよってるんだ」
荒野か。と俺は思った。それはこの単調で長すぎる人生を、象徴するに最適な言葉と思えた。
end
2004/02/21