ミロは手際よく釣竿を組み上げると、わたしの手に押し付けた。数本の棒切れを組み立てて、リールを取り付け、糸を通して針を結ぶ。針に餌をつける。その手つきがあまりに鮮やかなのでわたしは少し呆れた。彼のまねをして、少し離れたところへ投げ入れてみる。あとは待つだけ。とミロが言う。
城戸邸は東京近郊の田園地帯にあり、屋敷の奥には広大な山林が控えている。そこから流れる小さな川の縁に、ミロとわたしは来ていた。
日本は初夏の季節を迎え、みずみずしい青葉のかえでが滴るような影をわたしたちの上に落としていた。頭上には鳥の声、足許には若い雑草、青い花がこぼれ咲く。白いつつじが甘い蜜の匂いを溢れさせている。柔らかな日光が降り注ぎ、湿潤な風がゆるやかに髪を吹き抜ける。わたしはそういったすべてに、まだ慣れていなかった。
ほんの二月前、大きな戦争のさなかで重傷を負い、そこからわたしは意識をなくしていた。数週間眠り続けて目が覚めたとき、戦はすでに終わっていて、総司令である城戸嬢の屋敷で手厚い看護を受けていた。そこは初めて訪れる日本で、初めて体験する平和だった。
わたしはその日まで、釣りをしたことがなかった。
台に固定された釣竿は、つやつやと塗装されて美しいあめ色をしていた。アルファベットでキドと刻んである。もともとは城戸嬢の亡くなった祖父の物で、彼の側近であった老人から借り受けたとミロが言う。庭の仕事をしてるじいさんだよ。見たことあるだろ。わたしは覚えがなかった。
ミロはゆるく跳ねる長い金髪を束ね、サングラスをかけていた。とても明るい青い瞳なので、この天気ではとても眩しいのだろう。低く鼻歌を歌いながらなにか楽しそうにしているので、ミロの見ているほうを眺めてみたが、そこにはただ川面が光っているだけだった。
魚はなかなかかからなかった。やがてわたしはすっかり退屈してしまい、広げられた敷布の上に転がって目を閉じた。こんなふうに退屈したときや眠りに落ちる前、目を閉じてわたしはいつも想像した。イメージを膨らませ、神経を研ぎ澄ませるのだった。腹部の奥底から湧き上がる力、神経を駆け巡り全身を満たし、太陽の光冠のように体表を覆う。それらが掌の一点へ求心的に集まる。やがて激しい圧力が掌上で渦巻きはじめる。その力を・・・
ミロの声でイメージは途切れた。カミュ、魚。竿が魚の動きにあわせて、美しくしなっていた。釣竿を手に取ると、生き物の躍動の手ごたえが掌に伝わる。釣りという遊びの楽しさを、わたしはようやく理解した。
引き上げた糸の先には、何もいなかった。逃げられることがあるとは思っていなくて、わたしは落胆した。急に引き上げたらだめなんだよ。とミロが笑う。その指は再び、器用に新しい針を糸に結んでいる。わたしが驚いたりがっかりしたりする様子を見て、ミロはよく笑う。少し恨みがましい気持ちになって、皮肉っぽい口調になってしまう。
「ずいぶん詳しいんだな」
ミロはこっちを見上げると、手許に目を落としながらまた笑った。
「おまえが寝てた間、何週間もやってたんだぜ。上手になろうってもんだろ」
そうか、とわたしは返した。
例えば、ミロが死ぬような怪我をして、もうこのまま目が覚めないかもしれないと言われたとして、わたしは彼の目覚めを待つことができるだろうか。生まれて初めて、わたしは、自分が待つ立場に置かれたことがないことに気づいた。
今まで、いくつもの大戦をわたしたちはくぐり抜けてきた。戦のたびに、わたしは死んだ。手を抜いたとか力が足りなかったとか、そういうことでは決してないのだが、仲間のために最良の選択が自分の死だった。あるいは、正直なところ、死を選ぶことでこの人生から去りたかったのかもしれない。
女神に仕える闘士になると誓いを立て、洗礼を受けた時点で、わたしたちは普通の人間ではなくなったのだと思う。尋常ではない肉体の強靭さ、死んでも死んでも呼び戻される魂、永遠に続く戦い。そこから逃げ去りたかったのかもしれない。
ミロが立ち上がった。見てな、と釣竿を示した。軽やかに糸が舞い、仕掛けが投げられる。リールで糸を巻き取ると、魚を模した金属片が水中にひらひらと踊るのが見えた。投げること数度、竿がしなる。な、かかったろ、とでもいうような顔で、こちらを見下ろして片目をつぶる。注意深い手つきで糸を巻き、水面から魚が引き上げられた。
顎から針を抜き、川辺の浅い水に浸けたかごの中に魚を放す。二人でかごの中を覗きこんでいると、対岸を老人が歩いてきて、こちらへ軽く手を振った。ゆっくりと橋を渡ってくる。俺の先生だよ、とミロが言う。
老人はかごの魚を見て片言の英語で何事か言い、老人とミロは大きく笑いあった。二人はお互いつたない英語で意思の疎通を図っているものらしかった。ミロはわたしを指し、こないだ言った新しい弟子だ、と言った。老人は鷹揚に手を振り、ゆっくり練習しなさいと言った。それから二人は川を見ながら、あっちの木陰がどうの、岩場の手前がどうのともっともらしい顔をして話し込んでいた。
その後ろ姿は、わたしのよく知る、天蠍宮を守護する聖闘士ではなくて、まるで普通の人のように見えた。今までわたしは知らなかった、知ろうともしなかった。ミロはいつも戦いの終わった後、わたしの知らない「平和」な時代を生きながら暮らしてきたのだ。
戦士である我々は、勝利を勝ち得た瞬間に敗者となる。「平和」とは戦闘の合間の二義的なものに過ぎない。平和の日々に生きるということは、存在意義を否定されながら生きることに他ならない。多くの仲間を失い、喪失の苦しみや悲しみをじっと耐えながら、生き残った者は新しい時代を築いていく義務を負わされている。生きることの苦しみを、わたしは今まで知らなかった。
老人は去り、再びミロとわたしは木陰に座って魚を待っていた。
日が高くなってくるとあんまり釣れないんだ、とミロは言った。そうか、とわたしは応えた。明日も来ような、とミロが言う。そうだな、とわたしが言うと、ミロはなにかうれしそうにまた笑った。
end
2004/02/27