壊れた時計

 鷲が来る。銀色に光る鋭い翼が風を切り、その見事な大鷲はわたしの前に立つ。
 母さん、鷲が来るよ。いつもの夢から覚めると、母に言った。そうなの、と母は微笑した。

 母の夢を見る。
 丘へ向かう男。その髪は長く、風になびく銀の輝きが、母の胸に不安な予感をもたらす。薔薇色に燃え上がる、夕暮れの丘へ続く道を、母は走り出す。
 わたしの名を呼んでいる。どこにいるの、戻っていらっしゃい。
 家まで駆け戻り、街中をめぐり、半狂乱になって彼女は丘へ走る。
 丘の上に立ち、わたしは沈む日の輝かしい金色を眺めていた。金色の炎に包まれた黄昏を見るのが、わたしは好きだった。
 振り返ると、銀の鷲が立っていた。銀の髪、緑の瞳。すらりと背の高い青年だった。鷲は手を差し出した。さあ、行こう。わたしは夢でいつもそうするように、頷いて、手をそれに委ねた。



 その日は一年で最も盛大な祝祭の日だった。わたしたち、つまり黄金位の聖闘士は、花冠や刺繍の施された布で飾りつけられ、名の由来である黄金の鎧をまとって群衆の中を歩いていた。熱心な女神の信者が跪き、わたしたちの長衣に触れて祈る。香が焚かれ、花びらが撒かれる。人気があるのはやはりムウやシャカ、あとはアフロディテにアイオリア、次にミロといったところか。彼らの周りでは着飾った若い娘たちが、それぞれに優美に踊り、秋波を送る。わたくしにどうぞご寵愛を、いいえわたくしに。決まりきった毎年の情景に、わたしは列を乱さないようにゆっくりと、ただ歩くことに専心していた。
 群集の列の前方に、女がいた。わたしはそのありふれた女に目を止めた。年の頃は四十ほどだろうか。前方を歩くシュラの長衣を触れ、一心に祈る。女は顔を上げ、わたしを見上げ、にわかに顔を歪めた。おお、嗚呼なんてこと!口許を覆い、女は確かにわたしの名を叫んだ。次に別の男の名。それはおそらくわたしの父親の名前だろう。わたしの母は、ブルネットの美しい女だった。二十年近く経っているはずだったが、面影は充分に残っていた。
 すると、あれは。あのイメージは、わたしの妄想ではなかったのだ。わたしには母がいて、わたしは彼女に愛されていた。わたしは、かつて誰かに愛された存在だったのだ。
 わたしは彼女を見つめ、だが足はゆっくりと進み続けていた。彼女は立ち上がっていた。なぜだろう、カトリックだった彼女が。奇妙なことに、わたしは――わたしの記憶が確かだと言えるなら、三歳でさらわれてきたにもかかわらず、わたしは両親が名付けた自分の名前と宗教を憶えていた。サガは三歳のわたしを教皇の許へ連れて行った。教皇は倦んだ様子で辞書をめくり、おまえは今日からカミュだ、アクエリアスのカミュだ、と言ったのだ。汝は女神に仕えるべく生を受けた、今までの神と汝の名前を忘れよ。
 ああ、わたしは叫びだしそうだった。かあさん!僕は。
 通り過ぎるとき、彼女は泣いていた。カトリックだった彼女が。生まれ育った町で友人や親戚に囲まれていた、幸せそうだった彼女が。なぜ秘教の聖地で独り、泣いているのだろう。
「アクエリアス様」
 背後で彼女は叫んだ。
「わたくしは息子にまた会えるのでしょうか?」
 あなたに、慈悲深い女神の恵みがありますように。わたしは言った。彼女が泣き崩れるのを、わたしはわずかに振り返って見た。他にどう言えただろう?どうすればよかったのか?あなたの息子は、今もあなたを愛しています。それでどうなったことだろう?
 わたしは卒然、列を乱して走っていた。あなたの息子は、今もあなたを愛しています。彼女はわたしを見上げ、わたしの髪を撫で、頬を濡らしながら、元気で、とわたしの頬を撫でた。

 跪く人々の中に、それからもずっとわたしは母の面影を探した。彼女はもう二度と、現れることはなかった。

end
2008/03/09

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