息が、詰まりそうだ。
空気がぬるいゼリーのような感触で、鼻や口に詰まって呼吸ができない。カミュは苦しさのあまり体をよじらせ足掻いた。奇妙な感覚の空気の圧力が、全身にどろりと絡みつき、背中を地面に抑えつける。腕が、脚が、重くて思うように動かない。このままでは死んでしまう。残された渾身の力を振りしぼって、のしかかる空気をはねのけた、はずだった。
喉がくぐもった音を立て、カミュは深く空気を吸い込んでいた。口腔の奥が、乾いていたためか激しく痛んだ。喉を押さえ、カミュはあたりを見回した。彼は見慣れぬベッドの上にはね起きたところだった。
淡いクリーム色の天井、壁、同じ色のビニールの床。窓外をぼやかすレースのカーテン、薔薇色の重たいびろうどが窓を半ば塞ぎ、日をさえぎっている。壁際には布張りのソファが置かれ、ベッドとドアの間には白いカーテンが垂らされていた。消毒液の匂い。 内肘の違和感に目をすりはらう。血管に針が通され、細い管がその先に続いている。カミュはどうしようもなく不快になり、それを固定していたテープごと一気に引き抜いた。
ベッドから滑り降りる。重い。体も、空気も。夢の続きのようだった。悪態をつきながら、カミュは窓へと歩み寄った。なぜこんなに体が重いんだ。気が変になる。引き裂く勢いでカミュはカーテンごと窓を開け放った。
ぬるい風が吹き付けてきて、顔になにか膜のようなものがいくつか貼りついた。反射的にカミュはそれを手で払う。白い。いや、ごく淡い桃色だ。ひらひらと空気に抵抗しながら、爪ほどの大きさのそれが床に落ちる。かがみこんで、カミュはそれを注意深くつまんだ。花びらか。
窓からは湿った風に乗って、花びらがまるで雪かなにかのように吹き込んできていた。カミュは立ち上がり、窓の外を見た。目の前は白くさえぎられていた。そのような錯覚を覚えた。日の光はやわらかいはずなのに、その白に乱反射して鋭く目を射る。それは大きな木々の枝という枝を覆う花だった。葉はなく、春に萌え出でる若い芽のように、白い花が枝々から吹きこぼれている。そんな木が連なり、見える限り奥まで続いていた。
ぬるぬるした感触のなま温かい風が首筋を吹き抜けていく。どことなく甘い匂いがするのは、この花のせいだろうか。気分が悪い。カミュは悪夢を見ているような心地でベッドへ戻ろうとした。
「先生!目が覚めたんですね」
どこかで聞いたような声だ、とカミュは思った。その声が誰かに何事か叫ぶ。続いて、何人もの人間がいっせいに部屋へ踏み込んできて、カミュの腕を取り抱え込むと彼をベッドへと押し戻した。
「よかったずっと眠ってらっしゃったんですよ」
「痛むところはないですか?」
「俺、ずっとあなたに謝りたくて・・・」
涙で頬をぬらしながら、金髪の少年がカミュの手を握っている。
「お久しぶりです先生」
左目が無残に潰れた銀髪の少年が微笑んでいる。その奥にも長い金髪をゆるく波打たせた背の高い男が立っていて、カミュのほうをじっと見ていた。無遠慮に腕を取って脈を診ている男は医者だろう。彼らをかきわけるように、長い髪の小柄な少女が歩み寄ってくる。
「体は異常ありませんか、カミュ」
彼は短く、否と答えた。少女は鷹揚に微笑み、彼が死線をさまよい、命をとりとめ、数週間眠り続けていたことを説明した。
「ここはわたくしの屋敷です。ちょうど桜がきれいな時期ですし、ゆっくり療養なさい」
彼女が示した指によって、カミュは窓外の花の名を知った。ほっそりとした指がカミュの手を取る。
「あなたはずっとわたくしのために戦い続けてくださいました。今度はわたくしが皆に恩返しをしたいと思っております。もう戦う必要はないの。あなたがたのおかげで、皆が平和に暮らせるようになりました」
平和に?
「そうですよ。もう誰も血を流すことはないんです」
「また三人で暮らしましょう、俺と氷河と先生で。静かな日々を」
空気中の湿度が高すぎて、息が詰まる。開け放した窓から滑り込む、重く甘い風が桜の花びらを吹き上げる。甘ったるい匂いで、気分が悪い。
戦う必要はない?どういうことなんだ。
「戦いは終わったんです。もうあなたは戦わなくてもいいんですよ」
勝手なことを言うな。それでは、それでは一体自分は何のために生きていくというんだ。
「何をしてもいいんですよ」
「あなたのお好きなことをなさい。ちょうど桜がきれいな時期ですし」
「女神もこう言ってくださってます」
「先生、俺たちは上っていくんです、静かな日々の階段を」
でも女神、この花は気味が悪くて。ここは空気がとても重くて、息ができない。
大丈夫ですよすぐに慣れます。
戦う必要がないなら、この手は一体何のために。
静かな日々の階段を・・・。
息が、詰まる。
静かな日々の階段を・・・。
end
2004/02/21