クレヨン

 先生の遺品を整理したらトランク一つにしかならなくて、俺はそのことでまた悲しんだ。そのトランクを手に、俺は極北の家へ帰った。俺と先生と兄弟子が暮らした、俺にとっては我が家と呼べる場所はここしかなかった。
 家に着いて俺は、家具を覆っている白い布を剥がしていった。部屋は四つある。先生の部屋、俺の部屋、兄弟子の部屋、客間。それにダイニングと物置である地下室だ。暖炉に火を熾すと、ようやくその明かりで部屋が人の住む家のように見えた。
 しばらく家の手入れをしていなかったので、絶え間ない寒さにさいなまれた家はあちこち傷んでいるようだった。手始めに、俺は窓にこびりついた氷や汚れを落とすために、外へ出た。

 兄弟子アイザックは、海に落ちた俺を助けたとき、自分は力尽きて潮に流されてしまった。俺が殺したようなものだ。俺は自分を責め続け、先生はアイザックを救えなかった自分を責め続けた。そうしてある日先生は、もう忘れなさいと言って、兄弟子の使っていた部屋に鍵をかけた。そのとき以来、ドアは永遠に閉ざされている。俺と先生はお互いに忘れたふりを続けたが、アイザックの死は、共有の秘密のようにずっと心に沈み続けていた。
 師匠カミュは、俺が自分の手で殺した。俺と彼はどちらかが死ななくてはならない状況で、俺は自ら命を絶つ決意ができなかった。「おまえは継承する者だから、生きなくてはならない」。直後彼の体は、俺の力でずたずたに裂かれ、彼は死んでしまった。敬愛する人間を俺は。涙はもう出なかったが、殺害の情景を思うと足許が揺らいで、立っていられなかった。

 先生の部屋のドアを開けたが、俺は足が震えて、しばらく足を踏み入れることができなかった。家は昼間でも暗いから、ろうそくに火をつけてデスクに置く。トランクを引き入れた。
 トランクの中身は雑多なものばかりだ。使い込まれたとても古い辞書が数冊。フランス語とロシア語とギリシア語に英語。カミュが子供の頃使っていた、そして彼の育てた何人もの子供が使った辞書。俺は昔ギリシア語の勉強が嫌いで、この辞書を見るのがほんとにいやだったっけ。他の数冊の本と一緒に、本棚に詰める。
 ペンが数本。束ねられた手紙。いくつかの写真。クロゼットの半分を占めていた服などはギリシアの家で処分してきたので、それ以外の持ち物はほんとうに少なかった。それらをデスクにしまおうとして、俺は一番上の引き出しを開けた。鍵だ。それはアイザックの部屋のものに違いなかった。俺は鍵を手にとり、燭台を取り上げた。

 何年ぶりだろう。部屋の鍵は滑らかに開いた。白い覆い布を取り払ったアイザックの部屋は、最後に見た日とずいぶん違って見えた。こんなに小さな部屋だったのか、と俺は思わずつぶやいた。「もう忘れなさい」「はい、先生」。記憶はこんなに鮮やかなのに、あれから俺はとても背が伸びて、ずいぶん変わってしまった。
 幾分小さめの机、本棚、扉のついた背の低い棚、色あせてすらいない見覚えある模様のベッドカバー。あまりに懐かしくて、ベッドの上に突っ伏して俺は泣いた。アイザック、俺は先生を殺してしまったんだよ。俺は君を殺して先生を殺してここにいる。教えてくれ。生きるというのは、こんなにも辛いことなのか。

 アイザックの部屋にあった棚の扉を、俺は何の気なしに開いた。きれいに畳まれた服の上に、手荒く紙袋に包まれた何かが無造作に押し込まれている。俺はそれをベッドの上に持ち出し、そっと中を覗いてみた。
 見慣れた柄の、光沢ある紙。鮮やかな赤のリボン。あっ、と声を上げそうになった。それは確かに、毎年カミュが俺たちの誕生日に渡したプレゼントだった。俺とアイザックの誕生日は一ヶ月くらいしか離れていなかったので、その間のいずれかの日に二人分祝うのが常だった。毎年カミュは同じ店に行き、それぞれになにがしかを買い求めてきれいに包んでもらうと、頬を少し上気させて戻ってきて、いつもより少し豪勢な夕食の後もったいぶって渡すのだった。俺たちが歓声を上げて包みを開き、中身をあらためるのを、当のカミュがいちばんうれしそうに見ていたっけ。
 平たく長い包み。開けなくても、それが何か俺には大体わかった。古くなって黄ばんだセロファンテープ。古い紙の匂い。思ったとおり、中身は新品のクレヨンだった。平らな蓋を持ち上げる。懐かしい匂いがした。赤、茶、黄、緑、・・・。
 空も土も海も見渡す限り灰色の、花も咲かず太陽も顔を覗かさないこの土地で、油で練られたこの鮮やかな色たちが、どれほど貴かったことだろう。訓練と勉学の合間に俺とアイザックは、ずっと前からここにあった、ちびたクレヨンで思い思いの夢を描き出した。これは俺が生まれた土地、赤い花が咲いてるんだ。これは俺のマーマ。マーマの目はきれいなブルーなんだ。おまえまたマーマの話かよ。それより氷河、おまえ虎って見たことあるか?ないよ。確かこんなんだった。見てろよ・・・。
 俺たちはすごく大事に惜しんでクレヨンを使ったが、やがて赤の色が尽き、青が尽き、描ける物も少なくなった。俺たちは少し無口になりながらぼろぼろの箱を開くのだった。
 次の年の誕生日、カミュから贈られたのは真新しいクレヨンのセットだった。すごく色数も多くて、紙にすべらせるととても滑らかに描けた。色はとてもきれいで。俺はそのときこう思ったのだった。
「ああ、これでアイザックがいさえすれば!」
 そうか、あれはアイザックが死んだ年のことだったのか、と俺は思った。氷が緩みだすころアイザックを失い、それでいて次の年が明けるころ、二セットのクレヨンを買ったカミュのことを思った。

 俺はその後、贈られたクレヨンをほとんど使うことなくしまいっぱなしにしていた。箱を開いて、その鮮やかな色彩を見ると、アイザックのことが思い出されて辛かったし、一人で絵を描くには、俺は大きくなりすぎていた。俺は自分の部屋に戻り、棚の奥を探った。古ぼけた箱は確かにあった。
 ダイニングのテーブルで、俺は二つの箱を並べてそっと蓋を開いた。赤、橙、黄色。どちらの箱の赤も、心地よく紙の上を滑った。相変わらず、とてもきれいな色だった。黄緑、緑、空色。俺は箱から一色ずつとりだして、それぞれの色でまっすぐに太い線を引いた。色と色の間に隙間ができると、もう一つの箱から同じ色を出して、隙間を塗りつぶした。青、藍色、紫。
 アイザック、先生、見てくれよ。俺は顔を上げて、がらんとしたテーブルの向かいを見た。俺、今何にも考えてなかったんだけど、順番に塗っていったら虹の絵になったんだよ。すごいよな、このクレヨン。俺は誰もいない椅子の上に微笑みかけた。そこには誰もいなかったけれど、暖かかった家のなごりがわずかに消え残っていた。

end
2004/02/21

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